「おい、お前」
月に魅入っていると、闇の中から声がした。咄嗟に身構えて懐から使い慣れたナイフを取り出す。素早く視線を這わせるが、次の
瞬間には天地がひっくり返り、草の生えた柔らかい土の上に頭から叩きつけられる。突然の事で、肺から酸素が搾り取られ、呼吸が
出来なくなる。
「ごほっ、ごほっ・・・・・・・・・」
酸素を求めようとして咽る。先刻の声はどこか呆れたような溜め息をつき、
「なんだ。こんな“場所”に堕ちてくるくらいだからもうちっとはやれるかと思ったんだが・・・どうやら期待はずれだった見たい
だな」
「て・・・んめぇ・・・誰だぁぁ!!」
カッとなり、手にしたナイフで男の首を狙って突きを放つ。閃光じみたその一撃をしかし、男は手にした太鼓の撥のような鉄の棒
であっさりと受け流し、代わりに的確に鳩尾を狙った鋭いけりを叩き込んできた。それだけには留まらず、不安定になっている俺の
顎を撥の柄で跳ね上げ、仰け反ってがら空きの胴を撥で薙いだ。衝撃で数メートルほど吹っ飛ばされ、いくつかの木々にぶつかって
ようやく俺は止まった。
「がっ・・・・・・・はっ・・・・・・・・・・・・化け、モノが・・・・・・・・・・」
内臓を潰された腹を押さえながら、なんとか立ち上がった。―――――――と思ったらすぐに腰から下の感覚がなくなり、どすん
と仰向けに倒れてしまった。
「ちっ。本当にこの程度かよ。ったく、最近の餓鬼は予想以上に軟弱だな」
そういって声の主が月の明かりの下に姿を見せた。俺のことを餓鬼と呼ぶ割に、声の主は予想以上に若い男だった。
二十歳半ばほど、いっても三十は越えないであろうその男は闇のように黒い髪を適当に切りそろえ、顔は言葉通りつまらなそうに
歪めている。面立ちは精悍。痩躯だが、その実ソレは無駄を完全に排除したものだということはすぐに分かった。森の闇より尚深い
黒尽くめの格好をし、さながらこの劇場の主かなにかか。
そう、目に付く物はそんなものじゃない。
俺が男の姿を見たときからずっと魅入っているモノ。
夜空に唯一つきりだと思った月の如き蒼い瞳。
昔、子供の頃、友にとして、弟として生きた彼が持っていた、青い瞳。
「し、き・・・・・・・・・・・?」
返事が繰るよりも早く、俺の意識は消えてしまった。
「とっとと起きやがれくそ餓鬼」
どごん!!というあまり聞きたくない音が聞こえ、次いで遅ればせながら頭が砕けたような痛みが走り、さらに俺が悲鳴を上げら
れるようになるまでまた数秒ほどかかった。
「のぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ・・・・・・・・・・・・・・」
なんだか穴が開いてそうな頭を抑えて七転八倒する俺を“看守”は冷ややかな目で見下ろす。手には凶器だろうと思われる鉄の棒
―――――――たしか、『刺月』『打鬼』とか言う男が生前から愛用していた武器だそうだが、もしかしてソレで俺を叩き起こし
てくれやがったんでしょうかコンチクリョーは。
「てんめぇ!!俺を殺すつもりかよ!!」
文字通り殺人的な起こし方をしてくれやがったその男に抗議の声をあげる。しかし、『看守』はつまらなそうに耳を掻きながら、
「ぎゃあぎゃあ喚くな。心配しなくたっててめぇはとっくにおっちんでんだよ。これ以上“殺す”のは俺じゃできなねぇよ」
「そういう問題じゃないだろうぉ!!」
なおも食い下がろうとする俺を無視して『看守』はふっと姿を消す。まったく、唯の動作だけで人間の反射神経から外れるなんて
どうやって鍛えりゃそんな化け物みたいな芸当が出来るんだか。いや、本来化け物と呼ばれる俺ですらその動きが見えないのだから
あの男は本物の化け物なのだろう。まぁ、どちらにしろ、大して違わないし、どちらにしろあの男の言う事を聞いていないとここで
は暮らせない。
ここは、いわゆる“あの世”と呼ばれる場所なんだそうだ。死した存在―――肉体が再生不能なまでに破壊され、本来器となるべ
き肉体から抜け出てしまった“俺”という情報、概念が最後の一歩手間に留まる場所。そういう場所であるらしい。どうして俺がそ
んなことを知っているのかというと、理由は案外簡単なもんだ。
これらの知識を、俺はいまさっき俺を撲殺まがいの(というか、むしろそれ以外に表現できないような)起し方をした男から習っ
たことだった。
「あの化け物さえいなけりゃここもまだマシなんだけどな・・・・・・・・・・・」
愚痴をこぼしながら俺はここしばらく(と言っても時間なんてものが無いのでどのくらいか分からないが)住み着いた『看守』の
家の周りをフラフラと散歩していた。絶えず鬱蒼として空を覆い隠す木々だが、その隙間からは暖かい日の光が確かに感じられる。
この世界では精神力が強い者が想う世界が広く創られる。
初めての“講釈”の時に聞かされたことを思い出し、少しこの森を払わせようとしてみる。・・・結果はあっさりと失敗。小枝を
揺らす微風を吹かせるのがせいぜいだ。溜め息をついてまた歩き始める。
この世界に来たときから、俺は『看守』の世話になっている。本名を聞こうとしたが、教えてもらえなかったので『看守』と呼ぶ
ことにしたのだ。女じみた柔らかい面立ちだというのに眼つきがアレでは生前はそうとう『牢屋』に世話になっただろうと思ったか
らだ。その話をすると、なにやら若干落ち込んだようにも見えたが無視。代わりに奴は俺のことを『餓鬼』もしくは『若白髪』と呼
ぶから御互い様だ。
とまれ、これは俺よりも『看守』のほうが精神的に上位にあるということだ。それこそ、圧倒的に。
「ま、精神的どころか肉体的にもあいつにゃ勝てないけれどな」
あんな化け物をどうやって殺したのやら、と肩をすくめると、不意に俺の周囲に気配が生じる。鬱蒼と生い茂る森の中ゆらゆらと
浮かぶ“ソレ”。いってしまえば人魂である青い焔の塊をつまらなそうに眺める。
この世界・・・・・・・・・魔術師と呼ばれる酔狂な連中が血眼になってたどり着こうとしている『根源』の一端。
世界の全ての『記録』を『録音』しておくこの世界では存在し続けるにもそれなりの力が要る。
その『存在し続ける力』こそがこの世界にあって唯一無比の力になる。
それが弱いもの、あるいはその力を留めて置くだけの力がないものは次第に磨耗し、最期には一欠けらの焔になって、この世界に
『録音』されるのだそうだ。
といったところで、そんな説明、これっぽっちも分からない。
知っていなければいけないのはこの鬼火には俺を害する力を持たないことであり同時にこいつらの”終わり”も近いということ。
「と言っても明日は我が身か。まったく、面倒くさい場所に落ちたもんだぜ」
舌打ちして鬼火どもを散らす。
軽く手で払っただけで火の粉を散らして逃げ出す鬼火たちを無感動に見送った後で散歩を再開する。
この世界ではもうひとつ重要なことがある。
あらゆる存在は全て、『生きていたとき、もっとも大切にしていた記憶』が欠落している。
正確には先ず真っ先に世界に『録音』されてしまうからだそうだ。そして、世界に『録音』されては、端末でしかない『存在』に
其れを再生することは不可能。
『録音』された記憶はその存在にとって、其れを形作る最も重要な想い。
其れが欠落したならば、どれほど精神的に強固な人間ももろく崩れ去るだろう。
それは、俺にとっても他人事ではない。
俺にある記憶はかなり断片的でどれもさして重要で内容に思う。
十年前、突然出来た親友であり、弟である少年のこと。屋敷に幼女として引き取られた赤毛の少女。
そして最愛の妹と、あまり仲が良いとはいえなかった父。
どれも覚えているのに、どうしても一人、思い出すことの出来ない家族がいる。
「はっ。どうかしてる。そんなもの、たんに思い出すにもあたらないことなのだろうさ」
失った記憶など、おそらくは瑣末なこと。何故なら、俺は一番大切な思い出を失わずにすんでいるから。
「・・・・・・・・・っと、妙な場所に出たな・・・・・・・・・・」
声に出して呟いて、足を止める。
そこはどこか見覚えのある場所だった。三方をコンクリートの壁に囲まれ、道はいま来た道か、奥へと進むかの一本道。この森の
上では看守が作り上げた青い月が絶えず輝いているはずなのに、どこか光を拒むようにその道は暗い薄暗い。
「・・・・・・・・・・・・・・・・へぇ、これはまた・・・・・・・・・・・・・・」
眼を細めてかすかに口元が歪むのを感じる。
その道の奥、森の中に忽然と具現化された路地裏の闇に嗅ぎ慣れた臭いが満ちていることに気づいたのは半ばほど踏み入ったとき
だった。
寒い・・・・・・・・・・・・・・・・
足を抱えて地面に座り込んだ私は、呟くでもなくそう思った。
当然だ。季節はそろそろ冬の装いを見せる十月。
空に架かる白い月のようはこの漆黒の穴倉にまでその慈悲を届けはしない。
けれど、私は唯そのくらい空だけを見上げ続けた。
思い出せる最期の一瞬、藍くて蒼くて青い、
泣いてしまいそうな月を逢った気がしたから。
もう一度だけでも其れが逢いたくて、
だから私は空だけを見続けていた。
だから、寒い・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぎゅっと抱きしめるように強く腕に力を込める。
体温が下がった体は、私に温もりすらも与えてくれない。
否、私は温もりを得るだけの資格を失ってしまっている。
何故なら―――――――――――――――――
「ぐぅうっはあぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ・・・・・・・・・・・・」
不意に訪れた嘔吐感。
全身の血流が一斉に反転したような激痛。
喉は激しすぎる渇きを訴え、
心臓が誰かに握りしめられているように鼓動を打つ。
体を起こしていることすら出来ず、倒れて全身を走る苦痛と悪寒と――――――――――――――歓喜に耐える。
ぴちゃり
倒れた拍子に、また、其れの音が聞こえる。
眼を閉じることすら出来ず、私は其れを見てしまった。
そこは、一面にアカが撒き散らされた、凄惨で、美しすぎる原色の、風景。
「いやああああああああアアあああああああアアぁぁぁ嗚呼あああぁぁぁぁぁああああああ」
幾度も上げる悲鳴は、
幾度も繰り返される嗚咽は、
空に架かった月にすら届かない。
「―――――――――――私は、化け物だ・・・・・・・・・・・・」
シンクのみずに塗れて、私はありえざる人に呟く。
「だれか、私を、殺してください・・・・・・・・・・・・・・・・」
懇願は、いつものように空へと消える。
―――――――――――――――――消えるはずだった。
「其れは無理と言うものだ。何せ、お前はもう死んでるからな」
(つらないものを見つけてしまったな)
俺は心底そう思いながらげんなりとした。
森の中、看守の作った世界を侵すほどの異界を作った相手に興味を持って踏み入った路地裏で見つけたのは今にも崩れそうな女だ
った。
深紅の瞳は虚ろ。どこかの学校のものらしい制服は一面にまき散らかされた血によって穢され、二房に分けられた長い茶の髪は薄
汚れている。
「だ、れ?」
女は虚ろな瞳に恐怖を浮かべて問う。俺はそんな女の様子に肩透かしを食った思いで肩をすくめて
「亡霊だよ。お前と同じな。其れよりもこんなところで何してんだ。血の風呂につかろう、なんてどこぞの皇后の真似が事がしたい
なら、この程度では足りないだろうに」
「貴方は、だれ?」
女はこちらにまるで頓着せずに同じ質問を繰り返す。
俺は既に女から興味をなくしてしまっていたので、すぐにきびすを返してもと来た道をもどろうとした。
「――――――――――――――――思い、だした」
「ん?」
背後で動く気配。振り向くと女は立ち上がっている。
「貴方が、私を、殺したああアア嗚呼ぁあ嗚呼アア嗚呼ああああ嗚呼嗚呼ァァ!!!!!!!!!!」
絶叫を上げる女。
同時に世界は凄まじい勢いで『枯れて』いく。
「なっ!?」
本能に近いナニカが反応して一足飛びで十メートル近く間合いを離す。その瞬間にも路地は罅割れ、乾き、砕けて残ったのはなに
もない、枯れ果てた『世界』だけだった。
「何だってんだよいきなり!?」
愚痴る暇すらもない。女は軽い跳躍を見せると開いた間合いを刹那に零にし、真空を纏ってその細い右腕を振る。しかし、其れが
放つ“死”の気配は尋常ではない。
込められた気迫は正しく必殺。
舌打ちする暇も惜しく、体を大きく仰け反らせてやり過ごす。抉るようにして曲げられた二本の指は俺の腹の一部を削って通過し
ていくのがスローモーションのようにして見える。そして、その後に続けざまに轟音を伴って左の突きが来る。
「舐めるなぁぁっ!!」
叫ぶと同時。俺は体を右に開いて殺撃の突きを回避する。そして、がら空きになっている左の肩を左手で押さえ、右の貫手で女の
右目を狙う。
だが、その突きは空を切り、瞬時に俺の体は数メートルほど吹っ飛ばされた。
「グハぁっ!?」
驚きと衝撃で肺の中にある空気が全て搾り取られる。まさか、左手を突き出した勢いをそのままに回し蹴りを放ってくるなんて思
いもしていなかったから、完全な不意打ちだ。クソッ!!
直撃を食らった部位に触れると、皮膚が枯れ、あっさりと剥がれる。初撃で受けた傷も似たようなもので、実際に裂かれた傷より
も広い範囲がダメージを受けている。まぁもっとも、俺にとってはさほど深刻な損害ではない。肉体に受けた負傷ならば、たいてい
直ってしまう俺の能力『不死』は死んでしまったいまでも健在のようだ。
・・・・・・・・・・・・・冗談にしては出来が悪いが、いまは便利なので無視しておく。
それにしてもこの女、
「てめえ。一体どういうつもりだ。何故を襲う」
腰を低く落とし、懐から使い慣れたナイフを取り出し、逆手に構えながら女を睨む。が、すぐに顔が崩れてしまう。
「まぁいい。貴様は俺を殺したい。ならやることなんて簡単だな。
さあ、殺しあおうぜ。殺人鬼同士よお!!」
俺の叫びに、女は一瞬びくんと震える。しかし、そんなことを気にしている余裕も義理もない。
先ほどの女が見せた速さに勝るとも劣らぬ速度で間合いを詰め、手にしたナイフを女の胸に突き立て―――――――――――
―――――――――――――ることは出来なかった。
何故かって俺がナイフを振るったときには女は勝手に気絶して仰向けに倒れてしまったのだから。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
振り切ってしまったナイフが無性に悲しいひと時だった。